その時「大和」後部副砲円筒支筒下部に致命的被弾! 「雷跡が白く何本も向かってくる」【特攻まであと3日】
戦艦「大和」轟沈 75年目の真実④
■日本海軍の雷撃法とは違う米軍の巧妙な雷撃法!
防空指揮所で艦長伝令員の塚本高夫兵曹は、「艦首波除け付近にヒューときて命中した爆弾に胸がきざまれるようにヒヤッとした」と回想している。この被弾箇所は第2次攻撃隊の空母「イントレピッド」所属機が撮影した写真で確認できた。 そして当時第1艦橋右舷側の張り出し見張り所の上部見張員だった正阿弥猛が、その付近への直撃弾を記憶していた。
後部第2注排水管制所の応急員竹中茂は、「最初、前甲板に爆弾が命中したことを、拡声器で知らされた」と証言している。
7機は緩降下中に「大和」を含む護衛駆逐艦からの激しい対空砲火の集中によって4機が損傷、乗員一名が脚を負傷した。他は被弾した1機が爆弾投下を断念している。そして母艦にたどり着いたものの14機中2機が修理不能で破棄され、別の1機は損傷が激しいため母艦に着艦できずに海上に着水して機体は失われた。
日本側は最初の攻撃機25機に対し1機撃墜、さらに7機を撃破して、うち3機を機体放棄に至らせるまでの戦果をあげていたのである。 軍艦大和戦闘詳報は、さらに「12時45分左舷前部に魚雷一命中」を記録している。これに対応する米側記録は、「ホーネット」を飛び立った第17雷撃機中隊の戦闘記録に示されていた。
発進した14機中の1機はエンジン不調で帰還したが、ほかの13機が12時40分に日本艦隊を攻撃した。
8機が「大和」を雷撃して4本の命中を報告した。別の3機は秋月型駆逐艦、残りの1機は魚雷投下装置が不調で「大和」を攻撃できなかったが、後に護衛駆逐艦を雷撃している。
軍艦大和戦闘詳報は、「12時43分、左70度7000メートルに雷撃機5機向首す。単独右に回避す。左90度1000メートルに雷跡3を認める」と被雷本数以外ほぼ状況を正しく記録している。防空指揮所の艦長伝令、川畑光三二兵曹は「何であんな所に爆弾を投下しているのだろう。航空魚雷の投下だと初めは分からなかった」と日本海軍の雷撃法と違う、米軍の雷撃法にとまどったことを証言している。米軍は、緩降下爆撃と見誤るような巧妙な雷撃法で回避の判断を迷わせたのであった。それは高高度から投下可能な魚雷の開発にあった。 捷一号作戦(レイテ沖海戦)時の戦訓は、「輪形陣は雷撃に対しては不利なり、寧ろ方形の陣形を可と認める」と伝えていた。
主計長の堀井正は、「海がきれいなせいか、雷跡がよく見えた」と当時を思い出すかのように語っていた。
運用科の小阪勝男は、「前部揚錨機室付近に魚雷命中を初めに食らった。前部管制室、爆弾命中、上甲板は火災で濛々としていた」と米軍の前部への連続攻撃を証言している。
第1艦橋配置水測士の浅羽満夫は、「雷跡が白く何本も向かってくる。じっと目を凝らしていると、艦の舷側五メートル前に見えた瞬間、『ドッ』と命中、物凄い衝撃が体にがくがくと響く。前部左舷の水中信号室(水中聴音機)の附近に命中すると同時に水柱がぐっと盛り上がった。最大戦速の本艦はその盛り上がった水柱の中に突っ込み、第1艦橋に海水が飛び込んできて海図台が濡れた。艦橋配置から左舷後方を見ると、飛行機格納庫(消防ポンプは空母に準ずる)と第3主砲塔付近に煙が立ち込めていたが、その中に消火に動く人影が見え、白煙に近い状態だったので、火災は消えかかっているなと思った」と回想している。至近弾の威力は、予想外に大きいと感じた。
このとき、攻撃中の雷撃隊13機中の6機が被弾し、1機が撃墜された。別の1機は母艦に帰還したものの艦上修理の範囲を超える損害を受けていたため放棄された。 被弾した別の3機は、いずれも翼に大きな穴を開けられたので機銃弾によると思われるが、残りの1機は40ミリ弾で機体が粉砕されたと記録している。撃墜された雷撃機の乗員3名は行方不明となり、戦死したと思われる。 〈「大和」轟沈まであと2日へ・・・つづく〉
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